GREETING

代表・神谷剛からのご挨拶

神谷建築のこと、私のこと

神谷建築は、明治生まれの初代・神谷武則が30歳になった時、修行先から独立して創業した工務店です。

それから約70年間、3代に渡ってここ愛知県刈谷市で、地域に根ざした仕事をさせていただいています。

2代目・神谷蒼一、そして3代目の私・神谷剛が、伝統の大工の技術を受け継いできました。

今では数少ない、日本の木造軸組工法を知り尽くし、柱の手刻みから家をつくることができる技術を持つ貴重な大工職人・木造建築のスペシャリストであると自負しています。

ありがたいことに先代までが築いてくれたお客様との信頼関係がベースにあるので、口コミや紹介をいただくことも多く、これまで、たくさんの素晴らしいお客様との出会いがありました。

刈谷という自動車産業が発展した活気のある地域で、自分の仕事の基盤をつくってくれた祖父と父には本当に感謝しています。

 

・・・・・と、ここまでの話を読んでいただくと、私のことを「昔かたぎの大工さんなのかな?」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんね(笑)

初代、2代目は、確かにそんな雰囲気があったと思います。

でも私自身は大工の技術を大事にしつつ、職人としてだけ携わるのではなく「家づくり=暮らしづくり」として お客様とひとつひとつ丁寧に造り続けたいと思います。

賑やかな家で過ごした子ども時代

私が中学生の頃まで育った家は、祖父母、両親、弟妹と、大工の祖父の住み込みの弟子の方々とのにぎやかな大所帯でした。

この大人数に対しては大きいとは言えない農家風の古い家で、広い土間があって、そこにご近所さんや親戚が気軽に集まってくることも多く、それはそれは賑やかに過ごしていました。

お風呂は当時でもだいぶ時代遅れだった薪風呂で、小さい頃から見よう見まねで薪割りをしたりノコギリを勝手に持ち出して木を切ってみたりと、幼い頃から何かと木に触れ合うことが多かったです。

昔の大家族あるあるですが、祖父が居間のテレビで相撲を見だすと子供たちは自分が好きな番組はあきらめて一緒に見ていました。
長男の自分にとってもお兄ちゃんのような存在だった弟子の方と一緒にお風呂に入ったり、休日には遊んでもらったりしたことを思い出します。

いつも人がたくさんいたのでプライバシーはほとんど無かったですが、大家族でいつもお互いの顔を見て触れ合いを保ちながら過ごせたことは、核家族化の進んだ今から考えると、とても贅沢なことだったのかもしれません。

立派だけど家族を感じる事がなくなった極寒の家

▲右が私が高校生の頃に父が建てた実家、左上の2階建の家が結婚後に建てた私たち夫婦の家です

そんな家で中学生までを過ごした後、今の私たち夫婦が暮らす家がある広い敷地に、父が棟梁として腕をふるい、大きくて立派な日本家屋を建てました。

私と弟妹は憧れだった個室を与えられて、とても嬉しかったのです。

でも、今になって振り返ると、最初の家で過ごした大家族の濃密な触れ合いの時間がもう取り戻せないことに、少し寂しさを感じます。

▲冬の朝、トラックで寛ぐ父

今、この広い実家には父と母が2人で住んでいますが、寒い冬になると、父が毎朝、仕事前のひと時を車のエンジンをかけて運転席で新聞を読んだりして過ごしている姿を見かけます。

・・・・そうです。家の中が寒すぎて、車の中で暖をとっているんです。
実家の中は広くても落ち着く場所がないこともあるかもしれません。

何だかちょっと寂しい姿です。我が家に招き入れてあげたいところですが、結婚して父が建ててくれた我が家は、アパートのような間取りで狭いのでそういうわけにもいきません。

「紺屋の白袴」といいますが、腕のいい大工とは言っても、実際はそんな暮らしを送っていたりするものなんです。

「祖父は無口でまじめな大工」、「父は昔かたぎの頑固職人大工」、自分は「大工さんらしくない大工」とよくOBさんから言われます。
私はそんな昔かたぎの大工職人の祖父と父と一緒に育ちましたが、「大工には絶対なりたくない」と思ってました。
毎日スーツでかっこよく通勤する・・・・そんな生活に憧れて大学卒業後はアパレル業界に就職しました。
しかし、いざ憧れて入った業界なのに何か違和感(居心地の悪さ)を感じ、迷いながら過ごしている時、父から「週1・2回、現場の片付けにきてみるか?」と一言。

それが、私が建築の世界に入るきっかけになったのでした。

見習い期間は、掃除・職人さんの手伝い・片付けなどなど・・・・。
会社を退職しとりあえずやってみるか・・・・と軽い気持ちでしたが、職人さんの仕事を見ているうちに、腕一本で家づくりが出来るなんて、本当にすごいことなんだと強く思うようになりました。
それからは職人さんや、祖父・親方の仕事を見て覚え、夜間の職業訓練校にも通って大工技術を習得しました。

当時、見習いで欲しくても手が届かなかった某有名鉋を祖父がプレゼントしてくれた時は、嬉しくて毎晩研ぎの練習をしました。

理想の家との出会い

そんな私が仕事を続けてきた中で、ものすごい衝撃を受けた家があります。

それは、勉強会で、ある工務店さんのモデルハウスを見学させていただいた時のことでした。

そのモデルハウスは、その時まで自分が大工としていいと信じてきたこだわりとは、全く違う考え方でつくられた家でした。

大工の手仕事で全てをつくり上げる家と比べると、合理化してもいい部分は徹底して合理化されているのですが、構造材を包み隠さずにそのままあらわしで使っていたり、丁寧な大工仕事を否定しているわけではありません。

材料も、ものすごく高価なものを使っているわけではありませんが、木に包まれた本当に心地のよいモダンな空間です。

間取りは驚くほど開放的で、個室になっている空間がほとんどなく、どこに居ても家族の気配が感じられるようになっています。

・・・・・それは、眺めているだけで家族の楽しそうな笑い声が聞こえてきそうな家でした。

身の丈に合った、気取らず肩肘を張らない居心地のよさを感じました。
核家族化が進んだ今の時代に、家族の豊かな触れ合いを生み出してくれる家はこんな家じゃないか!と直感で感じました。

この家を見てしまった後で自分がこれまでいいと信じてきたことを振り返ると、気づいたことがたくさんありました。

 

それは、

  • 細かい大工の技が光る納まりや必要以上に高価な材料を使うことは、その家を立派に見せてくれるかもしれないけれども、実際の家族の暮らしや居心地とはほとんど関係がないのでは?
  • 暮らしを楽しく豊かにするために一番大切なのは、そこで生活する人の立場から充分に検討された設計(間取りのプラン)ではないか。
  • 昔ながらの手刻みでホゾ組みした家は、柱に大きな穴を空けて組むことになり、機械でプレカットされた柱・梁を金物で組んだ家の方がずっと地震に強い。

 

というようなことでした。

挙げていけばまだまだありますが、これだけでも、伝統的な大工の技術に誇りとこだわりを持っていた私の固定観念がどれだけひっくり返ったのか、ご想像いただけるかと思います。

「贅沢な材料を使った大工仕事が光る大きくて立派な家より、小さくても身の丈に合った居心地のよい家がいい」

これは「大工として」というより、1人の「生活者として」、私が心から感じたことなのでした。

>このモデルハウスを初めて見た時の感動をブログにも書いてみました。

「暮らしを楽しむための住まい」を求めて

それから、私と妻のみどりは家づくりのプロのための勉強会に熱心に通うようになりました。

大工職人としてある程度自信がついたのと、上で書いたモデルハウスのような家をどうしたらつくれるようになるだろう、それにはやはり、現場の仕事だけではなく、設計・法律・構造・デザイン・居心地・暮らしのことなどをもっと学ばないと!と感じたからです。

「暮らしを楽しむための住まい」を自分たちでつくれるようになりたいという一心で、特に設計に力を入れて学びました。

そうして学びを続けていくと、意外なことに建築を学んだことがない妻のみどりが、暮らしを大切にした設計が得意だという嬉しい発見もありました。

学びの中で出会った皆様には、本当に感謝しています。

こうして私が目指す「暮らしを楽しむための住まい」が形になった最初の住まいが、カミヤスタイルです。

これからの神谷建築

平成27年7月より神谷建築は「株式会社 神谷建築」になりました。

それに伴い、私、神谷剛が代表となり、一級建築士事務所を新たに開設しています。

 

このホームページの立ち上げにあたり、これから私たちはどんな仕事をしていきたいのか、を改めてイチから考えてみました。

「暮らしを楽しむための住まい」というコンセプトはもちろん変わりませんが、この刈谷の地で、夫婦2人の工務店として今何ができるのかをじっくりと話し合ってみたのです。

そうして考えた具体的な内容は「はじめてのかたへ」に具体的に記しています。

よろしければ、ぜひこちらもご一読ください。

 

代が変わってもお付き合いいただいているお客様と、そのご家族のご紹介でご縁ができたお客様。

・・・・・そしてこれから出会うであろうお客様。

そんな皆様とのご縁を何よりも大切にしながら、神谷建築はこれからも、居心地を追求した豊かな暮らしの提案を続けていきたいと思います。